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PROFILE

金子浩久プロフィール

かねこ・ひろひさ。モータリングライター。1961年、東京生まれ。大学卒業後、出版社で書籍と雑誌の編集者を3年半務め、独立。1987年にアメリカを長期旅行中に滞在していたニューヨークに、東京の知人編集者からF1メキシコ・グランプリ取材を手伝いに来ないかと国際電話をもらったことキッカケで、以後、モータースポーツを取材するようになる。

 帰国後、ブームになりかけていたF1をはじめ、当時のF3000やグループA、富士グランドチャンピオンシリーズ、F3などの全日本選手権に始まり、アメリカのインディカーとIMSAチャンピオンシップ、ヨーロッパのグループC選手権とツーリングカー選手権などから、ワンメイクのスズキ・アルトワークス・カップにいたるまで、あらゆるレースに行くようになる。
 2月のスペイン・ヘレスやポルトガル・エストリルなどのF1のテストデイに始まり、11月のマカオ・グランプリまで週末は、ほぼどこかのサーキットに出張していた当時Rの主な寄稿先は『週刊プレイボーイ』『PLAYBOY日本版』『Number』『NAVI』『オートテクニック』など。

 まだ、インターネットや携帯電話は実用化されておらず、海外のレース主申請や、
ホテルとレンタカーの予約はファクシミリやテレックスまで使っていた。
 カーナビなどももちろん存在せず、外国の飛行場でレンタカーを借り出し、
地図だけを頼りにサーキットやホテルを移動する旅程では、よき先輩にも恵まれ、
学ぶことが多かった。
ヨーロッパには、クルマとクルマを取り巻く環境や社会のあり方に付いて日本にはbook_05.pngbook_05.png
ない成熟が存していた。レースそのものだけでなく、その行き帰りの道中で体験したことを後に一冊にまとめたの『地球自動車旅行』(東京書籍)だ。

 また、87年のメキシコ・グランプリから継続して取材を続けていたF1を、
自分なりに咀嚼するのにアイルトン・セナの足跡を、特に日本と日本人との
関わり合いの中で明らかにしようと試みたのが、セナと日本人』(双葉社)だ。book_008.pngbook_008.png

 94年のサンマリノ・グランプリで壮烈な事故死を遂げた場に居合わせたことに触発され、その後1年間取材を続け、出版した。雑誌に発表した記事も含まれているが、追加取材を行い、
大幅な加筆と修正を施した。
 セナの死後には、さまざまな“追悼本”が出て、1年後の出版は遅過ぎるかとbook_011.pngbook_011.png
心配したが、杞憂に終わった。版を重ね、最終的には双葉社文庫に収められた。

一方で、モータースポーツと関係ない取材も行っており、その代表が現在でも続いている『NAVI』での『10年10万キロストーリー』である。この連載は、現在までに4冊が二玄社から単行本化されている。

 自動車の歴史への関心も強く抱いているが、昔の文献を渉猟することやコスプレ“ヒストリックカー・イベント”には興味がない。群雄割拠、波瀾万丈の自動車史の一部をなんとか自分の手で引き寄せ、現代の日本人に読んでもらえるテーマと手法を探していたところで、書けたのが『ニッポン・ミニ・ストーリー』(小学館)。

 ローバー・ミニという41年間も作り続けられているイギリスの小型車を日本人はイギリス人以上に可愛がった。かつては、日本車のクルマ造りにも大いに影響を与えた。ミニとミニの時代を、日本への影響という切り口で取材した。 

 小学館の『ラピタ』誌に1年間連載し、書籍にまとめた。手法として『セナと日本人』の二番煎じと言えなくもないが、書いている当人は日本の自動車技術開発の歴史やメカニズムなどについて大いに知るところとなり、とても面白かった。

 ミニのことを取材していた頃、自動車メーカーの商品企画担当者から、“ブランド価値”という言葉をよく耳にするようになった。クルマにも、ブランド価値が発生するような時代になったことを強く自覚させられ、書いたのが『レクサスのジレンマ』(学研)だ。アメリカで成功を収めているトヨタの高級車ブランド「レクサス」を、いよいよ本国日本でも展開すると発表した直後から取材を開始した。アメリカ、ヨーロッパ、日本各地へ出掛け、レクサスとレクサス・ブランドの行方を追った。同社の『ルボラン』誌で約1年間連載したものをまとめた。

 自動車に於けるブランド価値とは何か。
レクサスに限らず、世界中の自動車メーカーは、それについてどう取り組み、
どんなクルマを作っているのか?
その答えを、小沢コージ君との共著『力説自動車』の中に書いた。それまで、小学館の『サブラ』という男性誌で半年に一回ぐらい、バイヤーズガイド的な特集記事を彼と一緒に何度か書いていた。書いても書いても削る文章の方が多くなるほど、お互い言いたいことばかりだった。

 「どうせだったら、削る分を生かして一冊にまとめましょうよ」 この提案を快諾してくれたのは、当時の編集長小林慎一郎さんだ。担当編集者の星野博規さんと3人で、湯河原の温泉旅館に4日間籠った。日本で買えるすべてのクルマと、現代クルマ事情についてふたりで論じたものをMDに録音。
帰京し、厚さ10センチ以上にもなる速記録をもとに手分けしてすべてを書き直したから、予定よりも時間が掛かってしまった。同名、同趣向の『力説自動車』という連載を2008年に入ってから『サブラ』誌で始めた。

 自分にとって、この10年間で最も大きな出来ごとは、2003年夏にユーラシア大陸をクルマで横断したことだ。東京の自宅から、中古のトヨタ・カルディナワゴンで富山まで走り、フェリーでロシア・ウラジオストクに渡って一路西へ。
約一ヶ月後に、ユーラシア大陸最西端の地、ポルトガルのロカ岬に辿り着いた。写真家の田丸瑞穂さんと何年も前から情報収集から準備を始め、実行した。ロシア・クラスノヤルスクまで夏休み帰省する、東京外語大の留学生イーゴリ・チルコフさんに通訳として途中まで同行してもらった。

 この旅については、帰国後、『モーターマガジン』誌が2年間にもわたって紀行文を連載させてくれた。また、道中記をインターネットに毎日アップするという試みを『ユーラシア電走日記』と題して『WebCG』で連載したが、当時のロシアのネット接続事情は最悪で、初日から毎日アップの公約を果たせなかった。一週間遅れで、3、4日分をまとめて送稿することを繰り返していた。

 当時、「地球上で人間の住む98%の地域をカバーしています」という触れ込みのボーダフォンの海外用携帯電話を持っていったが、イルクーツク以東の極東シベリア地域では、まったく使いものにならなかった。「ということは、僕らは人間じゃないんですね」とイーゴリさんが、妙に丁寧な言い方をしたのが可笑しかった。

 携帯もネット事情も、その後、イルクーツク以西のロシアでは劇的に改善されていたが、極東ロシアには再び足を踏み入れていないので不明だ。
ロシアは、その3年後の06年に再び走った。ダイムラー・クライスラー(当時)のメディアイベント「Eクラス・エクスペリエンス パリ北京2006」で、エカテリンブルグから北京までE320CDIで5000km走った。エカテリンブルグから南下し、カザフスタンを通って中国を東進したから、極東シベリアに行っていないのだ。そして、2007年と2008年の夏には、「トランスシベリア」というアドベンチャーラリーに参加し、再々再度ロシアを走った。モスクワの赤の広場から、モンゴルのウランバートルまで7600km。

 かつて、パリダカール7回をはじめとして海外のアドベンチャーラリーに出場経験が豊富な写真家の小川義文さんから、誘われて参加した。「ラリーの経験がなくても大丈夫。カネコさんのロシアを走った経験に期待したいから声を掛けたんです」

 日本とは異なった光景の中を、探りながらクルマを走らせて旅を進めて いく時の昂りは何ものにも代え難い。意識と感覚が研ぎ澄まされ、透明になっていく。

 また、クルマの旅に出ることがあるかもしれないが、それがいつになるかはわからない。来週かもしれないし、来年かもしれない。できれば、早く出掛けたい。 
(2008年10月) 

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