セナと日本人(双葉文庫)
イモラ・サーキットでアイルトン・セナが絶命したのが、1994年。
単行本の『セナと日本人』が双葉社から出版されたのが、95年。
3年後の98年には同社の双葉社文庫に収められた。
2000年に双葉社文庫全体のカバーデザインが改められたと同時に、増刷もされている。
デザインは改められたが、用いられているジョー・ホンダさんの写真や内容を
要約したコピーは変わらない。
「セナの走りに、心に、生き方に最も共感したのは、私たち日本人だったーー。
なぜ、セナは日本人の心の中にこれほどまでに入り込んできたのだろう。
著者は、仕事やプライベートでセナと接していた15人の日本人を丁寧に取材し、
その謎を解いていく。不世出の天才ドライバーの軌跡を新たな視点からたどる、
気鋭の迫真ルポルタージュ」
モータースポーツジャーナリストの赤井邦彦さんが、巻末に解説を寄せて下さった。赤井さんは1970年代に渡英し、以来さまざまなレースを取材されている第一人者だ。
多くの単行本も発表されていて、僕も何冊も読ませていただいている。
そんな赤井さんが解説を寄せて下さったのは光栄なことだが、その中で、
ずばりこの本のアキレス腱を指摘されている。
「(前略)本書の登場人物は、セナという天才ドライバーの存在を
絶対として捉えている。
それぞれの登場人物が自らの思考や教養に基づいて、
勝手にセナを理解していると思っている場合が多い。
そこには批判が入り込む余地はない。
つまり一方的に美化(とまでは言わないが)してしまっている、と私は感じたのだ。
そうでない意見を述べているのは、かろうじて津川哲夫ぐらいなものだ。
理解と愛は異なるというならそれでいいが、理解なくして愛はあるのか、
という疑問は残る。
金子は本書でそんなことが言いたかったのではないだろうか」
たしかに、赤井さんが書いて下さった通りだ。
僕が取材した人たちは、セナの事故死からほどなかったという
タイミングもあって、セナを美化していることは否めない。
美化を越えた理解のために、もう一歩踏み込んだ取材と考察が必要だった、
と今になって自分の力の及ばなかったことを悔いている。
14年前に書いた本を久しぶりに読み返してみると、
善くも悪くも自分の“若さ”を感じる。
14年後の今、もしセナが生きていて、同じようにレース中に事故死したとしたら、
もう少しマシな文章は書けるだろう。
しかし、レーシングドライバーの死を受け入れて、
本を書くという行動がはたして取れるかどうかはわからない。
こころ動かされ、行動し、本を書けたのは若さのたまものだった。
外側から観察していたつもりだったが、自分もブームの渦中にいたわけである。
それだけ、セナとF1グランプリの磁力は強かった。