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Paris Beijing 2006



●5 ホームステイ カザフスタン・バルハシ



ダイムラー・クライスラー主催の「パリ~北京2006」が進むコースの標高をたどっていくと、距離にして最初の半分以上が500メートル以下の平らなところを通っていることがわかる。
 
パリからシュットガルトを経由してベルリンに向かう最初の3日間こそヨーロッパ・アルプスの麓をかすめるために標高600~700mのところを通過する。
 
だが、ベルリンを過ぎ、ポーランドとバルト3国を経由し、サンクトペテルブルクからロシアに入っても、標高は低いままだ。
 
ペルミからエカテリンブルクへ、ウラル山脈を越える際にも、標高は500mを少し越えるに過ぎない。
 
カザフスタンに入国し、コスタナイ、アスタナと進むにつれて、少しずつ標高が上がっていく。ロシアまでは白樺林が続いていたのが、カザフスタンに入ると、カザフステップと呼ばれる草原が続いていく。地平線まで見渡される、ゆるやかな起伏を持った草原が360度広がり、羊や山羊、牛などが放牧されている。
 
9年前にアルマトイから遷都した、新首都アスタナからバルハシに向かう途中から、道は次第に急峻になっていった。
 
道の大半は片側1車線で、もちろん対面通行。交通量は、日本の常識からすれば、ものすごく空いている。対向車や後続車が、全然来ないことだってある。遭遇するクルマは、トラックや地元の乗用車。E320CDIよりも高性能で速いクルマは、出てきそうもないし、実際、遭遇することもなかった。
 
だから、少なくともカザフスタンを走っている間中は、E320CDIは他のE320CDI以外のクルマに追い越されることはなかった。遅いクルマを追い越すことの連続だ。
 
その中でも、急勾配が続くアスタナからバルハシまでの区間は、特にE320CDIの持ち味である、ディーゼルエンジンの極太トルクと7速AT「7Gトロニック」のパフォーマンスを満喫することができた。
 
例えば、時速100kmから120kmぐらいでしばらく巡航していて、前方に追い越すべきクルマが見えてきたとする。
 
対向車の有無、道路の先が上っているか下っているか、ブラインドコーナーの有無、左右からの進入路の有無などで周囲の安全を確認できたら、すばやく追い越しにかかる。
 
左にウインカーを出し、対向車線に出ながら、スロットルを深く踏み込んでいく。
 
E320CDIの3リッターV6・24バルブDOHCディーゼルターボ・エンジンは、211馬力の最高出力と55.1kgmの最大トルクを発生している。3.5リッターV6ガソリンエンジンを搭載するE350と較べると、272馬力という最大出力はかなわないが、トルクは35.7kgmと較べものにならない太い。それも、最大トルクを1600回転という低い回転域から発生するのだから、100km/hぐらいからの加速には、まさにピッタリなのである。
 
道路が下りか平坦ならば、急激にスロットルペダルを開けない限り、7速ないし6速のままで前のクルマを追い越すことができる。
 
少し勢いを付けながら深めに踏み込めば、すかさずキックダウンが効くから、加速は一層と鋭くなる。
 
はるか彼方に対向車の姿を見付けたり、道路の勾配がキツかったりした時には、キックダウンを待たないで、7Gトロニックのシフトレバーを水平方向に軽く自分の方にスナップすればよい。
 
マニュアルシフト機能付きのATやロボタイズドMTなど、オートマチックとマニュアル操作が組み合わされたトランスミッションは、さまざまな方式のものが製品化されているが、シフトレバーを左右に動かすことによって変速するのは、「7Gトロニック」だけだ。
 
シフトレバーを前後に動かすことについては、個人的には手前をダウンシフトにした方が減速G(重力加速度)と一致しているので好ましいと考えている。その証拠に、レーシングカーやレーシングバイクが、その通りなのだ。でも、そうではないと考える自動車メーカーの方が多いから、この“左右方式”はアイデアものだ。減速Gの方向に囚われずに済むからだ。
 
キックダウンを用いず、ダウンシフトで1段落とせば間違いなく追い越しは完了する。まれに、勾配が急だったり、長いトレーラートラックを2台まとめて追い越したりする時に、2段落としたこともあった。いずれにしても、E320CDIの極太トルクがあっての安心感だった。
 
急峻な山々ではなく、広大な丘陵地帯を駆け上がっていくようにして標高を上げた末に、突然、目の前に現れたのがカラガンダの街の遠景だった。カラガンダは、アスタナとバルハシの間で唯一の大きな街だ。大きな丘の斜面を駆け上がり、その頂を越えた瞬間に、目の前が開けた。
 
カラガンダの街が、まるごと姿を現した。それは、ショッキングな光景だった。大きな工場から突き出た何本もの高い煙突から、真っ黒な煙がモクモクと吐き出されているのである。
 
カラガンダの街の周囲には何の建物も存在しないから、街と街の中にある工場群は、海の底で毒を吐きながらジッとしている深海魚のようだ。煙は途切れなく延々と、見えなくなるまで地平線の向こうへたなびいていた。
 
自然から都市(人工物)へは、混じり合いながら、なだらかに変化していくところがほとんどなはずなのに、ここでは何の前触れもなく、カザフステップの頂の向こうに、唐突に街が出現する。あの“砂漠の幻影都市”であるアメリカのラスベガスだって、道路脇の広告看板やロードサインなどが徐々に増えていきながら、街が出現するのだ。
 
それが、ここではカザフステップという大自然そのものと醜悪な人工物との、あまりにも対照的に存在している様子が異様だった。こんな光景は見たことがない。
 
唐突と言えば、カラガンダを過ぎてしばらく走ったところで遭遇した慰霊碑群も何の前触れもなかった。
 
ゆるやかな起伏とカーブの続く草原の中を走っていくと、道の左側に駐車スペースが広がっていた。でも、観光用のものやドライブインなどではなさそうだ。
 
入り口付近に、大きな抽象彫刻のようなモニュメントが建てられてある。用いられている石や金属の様子からして、そんなに古そうではない。それと向き合うようにして、少し小ぶりの石碑がずらりと並んでいる。刻まれている言葉はロシア語やカザフ語ではなく、ドイツ語やイタリア語のものが多い。
 
さまざまな形をした石碑に、各々のデザインが施され、イースター島のモアイ像のように、整然と並んでいる。刻まれている言葉の内容は判然としないが、年号から想像するに第二次大戦の時のもののようだ。
 
最後のひとつの石碑を眼にした途端、僕は一瞬、息が止まり、その場に立ち尽くした。

「平和鎮魂 日本人埋葬碑 全抑協会長 齋藤六郎」
 
日本語を刻むことができなかったのだろう、印刷された金属製プレートが石碑に埋め込まれていた。
 
第2次大戦終結時に、当時、満州や中国にいた日本人の約60万人が捕虜としてソ連当局によって連行され、ソ連各地の1200カ所の強制収容所に送り込まれた。
 
日本の旧厚生省が作成した資料によると、それらは現在のロシアだけでなく、カザフスタンやキルギスタン、ウズベキスタンなど旧ソ連を構成していた国々にも、広く分布していた。資料によれば、カラガンダとバルハシには、1万人以上の日本人を収容する収容所が存在していた。エカテリンブルクにも、途中のアクモリンスクというところにも、収容所はあった。酷寒と飢えと重労働によって亡くなった人は、7万人以上に上ったという。
 
強制収容所についてはさまざまな文献に記録が残されているが、僕は辺見じゅんの大宅賞受賞作品『収容所から来た遺書』を数ヶ月前に偶然に読み終えたばかりだったので、強いショックを受けた。ハイペースで走り続けても風景がほとんど変わらず、何もないような大草原の真ん中である。こんなところにまで連れて来られたのか、と。
 
収容所は、カラガンダやバルハシの街に近いところにあったのかもしれない。そうだったとしても、シベリア鉄道で何日間も日本とは反対方向に連れた来られた時の不安感や焦燥感は、いったいどれだけのものだっただろうか。おそろしくて、僕には想像することすらできない。 
 
それに較べれば、僕らはハードスケジュールとはいえ、毎晩柔らかいベッドで眠れ、美味しい食事に事欠かず、運転中はCDで音楽まで楽しみながら、極めて快適にE320CDIでここまで移動して来れた。この石碑群の前で停まらなかったら、62年前に悲惨な眼にあった日本人の方々のことなど何も気に留めることなどなかったに違いない。歴史のうねりのようなものに打ちのめされ、しばらく石碑の前から動くことができなかった。
 
大きなバルハシ湖の畔のバルハシ市には、暗くなってから到着した。街の中心部では、僕らの到着を待っていた地元の人々から大歓迎を受けた。市庁舎や公会堂などが集まる、ソ連時代だったらレーニン広場と呼ばれていたところにE320CDIを停め、公会堂で歓迎セレモニーが開かれた。
 
ここでの重要行事は、僕らとホストファミリーが引き合わされることだ。バルハシ市には全員が宿泊できるだけのホテルが存在していないために、あらかじめダイムラー・クライスラーと市当局が協議し、参加者を地元の家族のもとで宿泊させることになっていた。
 
僕のホストファミリーはメディエール君一家。25歳のメディエール君は弁護士で、会場には鉄道会社に勤めるガールフレンドと来ていた。彼の旧型BMW525iに10分ぐらい乗せられて、家に着く。ご両親はパン工場を経営しているとかで、自宅は大きく立派だった。お父さんは、トヨタ・シエナに乗っている。彼も彼の家族も、ガールフレンドも、見た目は僕ら日本人と一緒だ。
 
お母さんお手製の夕食をご馳走になり、お互いに写真を見せたりして、民間親善に務めた。

「カプースタ」という、キャベツ、ナス、ニンジンなどをハーブやニンニクなどと一緒にマリネしたサラダや、「ジャルコエ」という牛肉とジャガイモの煮物が美味しかった。どちらも、ハーブやスパイスが効いていて、西洋料理とも中華料理とも違った味だ。
 
彼らの関心が強かったのは、日本でのクルマの価格だった。日本車はカザフスタンでも人気だったが、ほとんどが中古車として輸入されたものばかりで、それも安くはなかった。シエナは日本で売られていないが、エスティマや新型5シリーズの価格を例に挙げて説明すると、その安さが信じられないという。中古とはいえ、輸入車はまだ高級品なのだ。