Transsyberia2008 トランスシベリア2008


●モンゴル 前半戦

トランスシベリア2008の全行程14日間で、ホッとできる1・5日間がある。ロシアとモンゴルの国境を越えてからの半日と、翌日の休日だ。
 
ロシア出国のパスポートコントロールと税関を通過するのに5時間、緩衝地帯を走り抜けるのに30分、モンゴル入国の審査と税関通過に30分、合計6時間も掛かった。
 
ラリーの一行の他に国境を通過するクルマは、今年は一台も見なかった。昨年は、モンゴルへ戻るロシアからの乗り合いバスを一台見ただけだ。空いているのにこんなに時間が掛かるのは、陸路でのロシアとモンゴルの国境を越えられる乗用車が一日20台に制限されているからだった。もちろん、トランスシベリアのオーガナイザーは事前にロシア当局から特別許可を受けていて、まとめて出国できるようにはなっているのだが、慣行通り20台ずつ区切って、出国審査を行っていた。

その審査作業が、社会主義時代の悪癖が残っているからなのか、イライラさせられるぐらいトロい。効率とか利用者利便性向上という言葉が、まったく存在していない。
 
ガラスで隔てられたカウンターの向こうの係官にクルマの登録証を渡し、その場でずっと待たされる。すぐに通過したいから、狭いところに40人の参加者がギュウギュウ詰めになって、次のプロセスであるパスポート・コントロールへ移動するのを待っている。
 
それでも少しずつ進み、カウンターの一番端から、それとなくずっとパソコン・モニターの前に座っている十勝花子によく似た女性係官の仕事ぶりをチラ見してみた。見えそうで見えない画面を、背伸びして覗き込んでみると、なんと、表と裏になったトランプ数枚が写し出されているではないか。インターネット・ゲームサイトで、ブラックジャックを楽しんでいるのだ。
 
花子に気付かれないように、隣で同じようにイラ付いているチーム・ミドルイーストのティム・トレンカーにそっと教えてやった。
 
ティムは190cm近い長身だから、簡単に覗き込めた。ティムの“チッ”という舌打ちが聞こえたのか、花子は席を立ってしまった。続くパスポートコントロールでも延々待たされた。狭い事務所内に僕らがひしめき合っていると、本当に酸欠になったような気持ち悪さに襲われて、時々、外の空気に当たりに行って戻ってきても、まだ順番が進んでいないことがあった。
 
なんとかロシアを出国し、緩衝地帯を通って、モンゴルへ向かう。国境線がどうのようにして定められたのか知らないが、昨晩キャンプ泊したコシュアガシュからモンゴルに近付くにしたがって、樹木というものが視界から無くなっていっている。緩衝地帯には、背の低い草が疎らに生えているだけだ。これから東に進んで行っても、ところによって背の低い灌木があるぐらいだ。ロシアとモンゴルの違いは何かと問われたら、僕は“樹木が生えていないこと”と即答している。
 
樹木がないということは森や林が存在せず、つまり、その恵みに預かろうとする人間も定住していないことを意味する。モンゴルの人たちは、なだらかな草原とステップを、家畜を追いながら生きている。
 
山羊や牛、ヤクやラクダなどとともに生きているわけだから、モンゴルの草原には道がないのだ。人間が定住していたら道が必要になるが、動物は道の上を移動しない。轍があっても道路がないモンゴルで、ラリーを戦う意味を2年目にして初めて自覚させられた。
 
モンゴルに入国し、今晩のキャンプ地であるオルギーの町まで、大きな丘陵地ふたつとそこから広がる扇状地ふたつを越えて行かなければならない。昨年はその扇状地を前にして、どこをどう走ればいいものか見当が付かなかったが、今年は不安はない。昨年走った轍をなぞるということではなく、丘と扇状地の縁に轍があるということを経験として身に付けることができたからだ。ウエイポイントとウエイポイントの距離が長いと、あまりに広大な土地のどこをどう走っていいかわからなくなることがある。丘なり崖なり高低差のある土地というのは、その間を川が流れていたり、かつて流れていた場合がほとんどだから、川から最も遠い縁に轍はできているわけである。
 
オルギー手前の扇状地を前にして、視野の縮尺度が一気に広がったのを自覚できた。経験を積んだ賜物だ。
 
競技において、昨年と最も違ったのは、毎日、マキシマムタイムが設定されていたことだろう。スタートから、キャンプ地までの最大所要時間を越えると、ペナルティを喰らう、ロシア初日に僕らが受けた洗礼だ。 マキシマムタイムが設定されていると、スペシャルステージ前後のリエゾン区間でも気が抜けないのだ。スペシャルステージをフィニッシュし、特に問題がなければ、余裕で宿泊地まで着ける時間なのだが、緊張が解けないのだ。しかし、国境通過日には、それがないから気がラクだ。
 
丘をふたつ越えて降りていったところのオルギーの町を抜け、再び大きな丘陵地帯に差し掛かったところのキャンプ地に到着し、とりあえずテントを張った。まだ、半分以上が到着していないから、張る場所を選べる。
 
昨晩のコシュアガシュから帯同してくれているモンゴル人一家が運営する業者が、すでに大きなテントを設営し、晩飯の支度に取り掛かっている。去年は、ユーロやドル、ロシアン・ルーブルからモンゴルの通貨トュルクへの両替を専任で行うドイツ人の若者がいたが、今年はご飯をサーブしてくれるお姉さんが両替をしてくれる。
 
15万円分のルーブルをトゥルクへ替えてもらったら、厚さ2センチぐらいの札束が返ってきた。こんなぶ分厚い札束を手にしたのは初めてだ。ふざけて、次に順番を待っていた参加者に見せたら、みんなゲラゲラと笑った。
 
僕らより一足先にキャンプに到着していた、ボヤン・リソビックがテントの外に敷いたシートに寝転がり、リラックスして分厚い本を読んでいた。ボヤンは父親のミルコとランドローバー・ディフェンダー110でボスニアから参加しているプライベーターだ。一昨日の晩、ノボシビルスクのホテルのバーで、GPSに緯度と経度を打ち込んでいたボヤンの隣のテーブルでビールを飲んだ時から、話をするようになった。
 
父親のミルコは1978年のボスニア・ヘルツェゴビナのラリーチャンピオンだったが、最近は競技から遠ざかっている。親子でいくつのも事業を展開しており、ボヤンはボスニアで不動産開発会社を経営している。

先月、アウディRS6を買ったけど、日産GT-RはRS6よりも速いのか?」
 
きっと、事業もうまく行っているのだろう。日本にも、仕事で何度も来たことがあるらしい。

「僕らのランドローバーはディーゼルエンジンなので君らのカイエンのようなスピードは出せないけど、トルクがある上にサスペンションのホイールストロークが長いから、スタックすることはないのが強味だ。でも、順位を争うのではなく、旅を楽しむつもりで参加している」
 
読んでいる英語のハードカバーは、中央アジアの歴史書だった。父親のミルコは言葉少な気だが、微笑みを絶やさない。キャンプ地の周辺を、よくノンビリと散歩していた。
 
トランスシベリア2008が初のアドベンチャーラリー参加というコンビもいる。ふたつ前の三菱パジェロ2.8TDIでスイスのローザンヌから参加してきているオウレル・バックマンとブランケ・ダミエンだ。
 
オウレルは、オルギーのキャンプ地に着いて、フロントグリルとラジエーターの間に詰まった草や土、小石などを手を突っ込んで取り払っていた。

「パジェロの一番のウィークポイントなんだ。グリルを取り外しても、ラジエーターが奥に位置していて、その手前に車体のフレームが横切っているから、こうやって手を突っ込まないと取れない」
 
14万kmも走っているから、お世辞にもキレイなクルマではないが、サスペンションのマウントを改造し、ダンパーを2本に増やしたり、効果的で実質的な改造が施されている。聞けば、ラリー出場こそ初めてだが、20年以上前から、サハラ砂漠を何度も旅しているという。
 
ラリーが始まってしまうと、やらなければならないことに追われて、他の選手と話し込む時間はあまりない。あっても、競技に関係する情報交換がほとんどになる。競技から離れたプライベートのことをノンビリと話せるのは、この1・5日間ぐらいのものだ。特に、カイエン以外のクルマで参加してきている者とはモスクワで初めて顔を合わせるので、なおさらだ。

「パジェロには、初代から4台続けて乗っている。壊れないし、運転しやすいところが気に入っているよ」
 
オウレルは、フランス人元F1ドライバーのアラン・プロストに似ている。

「君ら、ポルシェに乗る連中は、飛ばすだけだからラクだろう?」
 
シニカルな物言いも、プロストっぽい。オウレルたちの戦略は、ミスコースをせず、クルマを壊さないで完走することに尽きていた。上位入賞など、ハナッから考えていない。無理して飛ばしてクルマを壊したら、自分たちだけで直さなければいけないからだ。だから、後続車に接近されると、すぐに横にどいて、進路を譲る。
 
マンクハンからダルビィまでの、モンゴル2回目のスペシャルステージの終盤近い長い上り坂の途中で、停まっているオウレルたちのパジェロが見えた。近付くと、パジェロのボディはひしゃげている。横転したのだ。オウレルもダミエンもクルマから降りて無事なようだが、こんなに見通しがいい直線で、いったい何があったのか。

「そうなんだ。100キロぐらいで調子良く走っていたんだ。轍の中の、そんなに大きくない水たまりを右前輪と続く後輪で踏み越えた途端、いきなりスピンして、アッという間に4階転がった。身体は大丈夫だ。このままじゃ走れないので、オーガナイザーにはすでに電話してある。ありがとう」
 
その晩のブリーフィングで、オーガナイザーのひとり、アクセル・ゲッツがオウレルたちのアクシデントについて報告し、ふたりは無事で、パジェロを運ぶトラックに乗って、みんなと一緒にウランバートルに向かうことを説明した。
 
まったく偶然に、ブリーフィングを行っていた食堂テントに戻ってきたオウレルが入ってきた。アクセルの報告で起こった拍手の中へ当人が舞い込んできたものだから、拍手はさらに大きくなり、オウレルは指笛まで吹かれる始末。照れくさそうに右手を上げてみんなに返礼し、皿を取って、料理を取り始めた。食べ終えて、紅茶を飲んでいる僕らのテーブルにオウレルは腰掛けた。

「ボディはツブれたけど、シャシーとエンジンは大丈夫だから、ボディを探して、作り直すさ」
 
ロールバーが入っているとはいえ、4回転してツブレたパジェロは復活できないだろうと思っていたら、オウレルは修復するつもりだ。この執念深さで、パジェロを4台も乗り続けてきたのだ。

「直せなかったら、君たちから三菱自動車を紹介してくれないか? 新しいパジェロで来年、また出よう。ハハハハハハッ」
 
数時間前に、4回転してきたとは思えないほど元気で、安心した。
 
翌朝、ボヤンに会うと、今日のアルタイまでのスペシャルステージには出走しないという。
「このクルマじゃキツそうだからね。用心しておくよ。先に、キャンプで待っているから」
 
スペシャルステージに出走しなければ、その分、順位はかなり下がる。しかし、ボヤンは、無理するよりは確実にウランバートルまで辿り着くことを重視した。こうした参加の仕方もあることに、僕は目から鱗が落ちた。自分たちで直せないほどクルマを壊してしまったら、その時点でラリーは終わりだ。ウランバートルまで走り切ることを最優先するならば、スペシャルステージを自らキャンセルすることも厭わない。これはこれで、大ありだ。大ありどころか、アドベンチャーラリーに参加する姿勢として、正しいのではないか。正しいなんて、おこがましい。床も抜けんばかりにスロットルを踏み込み、飛ばしに飛ばした挙げ句にクルマを壊しても、僕らカイエン勢はポルシェのメカニックが、眠っている間に修理してくれる。
 
旧型のトヨタ・ランドクルーザーで参加しているウタ・ベイエールとマリオ・スタインブリングなどは、僕らがシュラフに潜り込む頃でも、自らランクルの下に潜ってダンパー交換などを行っていた。睡眠時間を削って、整備していたわけだ。その甲斐あって、彼女たちは総合7位に入ってみせた。
 
昨年に較べて、カイエンに乗るプロが増えたおかげでトップグループのハイスピード化が進んだ。しかし、それとは関係なく、プライベート参加している面々は、それぞれのスタイルでラリーを楽しんでいた。