Transsyberia2007 トランスシベリア モスクワー3

2007年8月 ロシア・モスクワ~モンゴル・ウランバートル


●ライバルに救いの手を

林の中を流れる、幅10メートルほどの川の前でエディたちのゼッケン7番が停まっていた。
川の中で、メルセデスML350が水没し、もがいているのだ。
川の流れはゆるやかだが、ML350は斜めになってウインドウの下縁まで水に浸かっている。
 
エディたちの7番、911カレラ、僕ら15番の順で、
川の前の一本道で順番を待つ形になった。
道の両側は草深いブッシュだから、川を渡ってしか前に進むことはできない。
僕らの後ろには、サンヨンや「プロトタイプ・レーシング」の
12番が追い付いてきていた。
 
みんなクルマを下りてきて、
ML350とエディたちの一挙手一投足を固唾を飲んで見守っている。
 
ML350のドライバーとコ・ドライバーはウインチを使って脱出を試み始めた。
ワイアロープを対岸の樹木に結び付け、自らを引き上げようという作戦だ。
ウインチが唸りを上げ、ワイアロープがピンッと張り、
川底の泥に沈んでいた黒と銀のML350を引き上げた。
付近の住民なのか、見物人の間から拍手が起こった。
 
次は、エディの番だ。いつも朗らかに喋ってばかりいる59歳のシンガポーリアンは、
相当に緊張しているのか、表情がこわばって、口数が少なくなっている。
「エディ、大丈夫かな?」
 
ドライバーズシートから、フロントガラス越しに様子を見ていた小川さんが
心配している。エディは、小川さんのパリダカでの豊富な経験を知ってから、
小川さんを頼りにして、何かにつけ、
「パリスダカールでは、どうだった?」と話し掛けてくる。
「あっ、もっとゆっくり入っていかないとダメだ」
 
小川さんの心配していた通り、エディは目一杯勢いを付けて、
ウオータースライダーのように着水した。
いくら加速したところで、水の抵抗は大きいから、勢いを減じてしまう。
いたずらにエンジン回転を上げてしまうことで、川底を掻いてしまうだけだ。
 
案の定、エディのカイエンSは動きが取れなくなった。
テールパイプから、空しくブクブクと排ガスを出すだけだ。
ギアをリバース入れたが、川底をタイヤで掘って、どんどん沈んでいっている。
 
助手席のプラディップが重たそうにドアを空けて、出てきた。
その瞬間、濁った水が車内にドッと流れ込む。
胸まで水に浸りながら、プラディップはテールゲートを開けて牽引ロープと
シャックルを取り出した。
自分たちのカイエンSのフックにシャックルを介してロープを取り付けると、
もう一方の端を持って、こちらにやってきた。

「君たちのクルマにこのロープを結び付けて、
僕らをリバースで引っ張り上げてくれないか?」
プラディップの眼は真剣だ。
「カネコさん、どうする?」
「やりましょう」
 
プラディップに、真正面から眼を見られながら頼まれたので、断れなかった。
ノーと言ったって、規則違反でもなんでもないのだが、
気持ちの収まりを付ける自信がなかった。
まったくのラリー初心者であるがゆえの甘さなのかもしれないが、
せっかく仲良くなった仲間を放っておくわけにはいかない。
少し順位が下がったところで、まだ先は長い。気持ちよく戦いたいじゃないか。
躊躇することはなかった。
 
僕らのカイエンSのフロントのフックに、プラディップが持ってきた
シャックルを結び付け、バックで引っ張り上げた。
 
再び、エディたちは川を渡らなければならない。
運転席から降りてきたエディが、こちらの窓から首を突っ込んで来る。

「ローレンジに入れるのには、どうしたらいいんだ?」
エディは知らなかったのか。
ライプチヒのトレーニングで、いったい何をやっていたんだ。
ギアを、ニュートラルにしてレバーを下に1段分落とすだけのことじゃないか。
水没するのも無理はない。
「その上、ゆっくり、ゆっくり行くんだ」
 
小川さんのアドバイスが効いたのか、エディは先ほどとは打って変わって
慎重に川に入り、対岸に渡った。
 
次は、僕らの番だが、エディに教えたことが自分たちへの確認になったようで、
危な気なく、ゆっくりと渡れた。
 
しかし、無事に川を渡れたエディたちの7番が、対岸の上り坂のマディな路面で
スリップして立ち往生している。
僕はカイエンSから降り、右側のブッシュの中に入ってみた。
切り株や太い木のないところを見定め、小川さんを誘導し、エディたちの前に出た。
今度は、プラディップが訊いてくる。
「デフロックって、どうやるんだっけ?」
「ローレンジから、さらにもう1段レバーを落とすんだよ」
 
エディをどかせてレバーを操作してみると、ローレンジにもデフロックにもならない。
さっきの水没でシート下のコンピューターユニットがやられてしまったのかもしれない。
仕方がない、また、ロープとシャックルを出して、平らなところまで牽引だ。
 
その間、僕らがブッシュに着けたワダチの上を、
他のチームのクルマが何台も通り抜けていく。

「こういう時もあるんだよ。次は、僕らがエディたちに助けられるかもしれないからね」
だが、助けられることを期待して、僕らはエディたちに“貸し”を作ったわけではない。
自分たちの成績だけを優先させることよりも大事なものがあることに気付いたからだ。

「今日のスペシャルステージで、カネコさんはラリーの大きな洗礼を受けたね」
スペシャルステージをフィニッシュし、ヘルメットを脱いで、
再びリエゾン区間を走り始めた小川さんに言われた。
「ミスコース、深い川渡り、ライバルの救助。アドベンチャーラリーで起きそうなことに、
一斉に見舞われたね」
 
大きな広場に、フィニッシュしたラリーカーが集まっていた。
リアバンパーを失ったり、ホイールを割ったり、ダメージを負ったクルマもいる。
幸い、僕らは無傷だ。車内で激しく揺すられたのには、かなり参ったが、
エディたちを積極的に助けたことが、自分でも意外だった。
自分のことはわかり切っているつもりだったが、知らない自分に気付かされた。
アドベンチャーラリーの奥深さによるものなのだろうか。