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Paris Beijing 2006



●9 火鍋と高級ヴィラ 中国・バダリン



カザフスタンとの国境を越えて、中国を西から東に走って来た「パリ北京2006」
(ダイムラー・クライスラー主催の「Eクラス・エクスペリエンス パリ~北京2006」)も、いよいよゴールの北京を目前にしていた。
 


北京入りする前日は、北京郊外のバダリン(Badaling)に一泊する。
そのバダリンへは、内モンゴル自治区のホフホト(Hohhot)から463km走っていく。
ホフホトで食べた、シャブシャブに似た火鍋が素晴らしく美味かった。
シャブシャブと違って、肉や野菜を泳がす鍋内のお湯にまことに滋味深い味が
付いているのだ。それも、仕切りが付いているから2種類も!!
 


バダリンから北京までは78kmしかないから、
ホフホトから一気に北京入りすることが十分に可能だ。
それまで、600kmや700km走っているのだから、わけない。
 
バダリンは、万里の長城観光のメッカだった。
万里の長城が、自然崩落やレンガの盗掘などによって、そのすべてが現存していない様子は「パリ北京2006」の道中でも目の当たりにしてきたが、ここは違う。
何方向へも延びた長城に観光客が登れるように整備されており、
観光バス駐車場の周りは土産物屋が軒を連ねている。
 
その土産物屋街の脇道を1kmほど上がっていくと、今晩のホテルがあるはずだ。
スタッフから渡された旅程表には、「Commune by The Great Wall」とある。
コミューンとは、人民公社のことだ。「万里の長城人民公社」。
資本主義が導入されたとはいえ、中国は依然として共産党が一党独裁する
社会主義体制を敷いている。
もしかして、今夜はマルクス・レーニン主義テイストの宿に泊まるのか!?
 
ちょっと心配しながら、山の中に入っていくと、目の前には超モダンな建物が建っていた。建物は、細い道沿いに何十も建っている。
あるものはコンクリート打ちっ放し、あるものは真っ白な壁、そして、あるものは竹を加工したファサードと、すべての建築デザインが異なっている。
でも、現代的なテイストという点は統一されている。
 
ここは、いったい何なんだ!?
 
今晩我々が宿泊する高級ロッジだった。
僕とSカメラマンは中ぐらいの一軒を割り当てられ、1階と2階のひと部屋ずつを使った。
共用のリビング/ダイニングスペースまで用意された贅沢な作りで、
長旅の疲れと垢を落とすことができた。
 
日本の建築家・隈研吾氏もプロデュースに加わったとパンフレットにある。
豪華なロッジという点では見事なものだが、中国にある必然性がまったくない作風だ。
同じものがヨーロッパにあっても、アメリカにあっても、日本にあってもおかしくはない。逆に考えれば、デザインが土着していないインターナショナルなホテルを建てられるようになったという時代の変化の痕跡を、建築家と施主は表現したかったのかもしれない。
コミューンとは、中世ヨーロッパで住民に自治が任された都市を示すフランス語でもある。このホテルも、ある意味“自治都市”のようなものだ。
 
コミューンでのパーティには、ディエター・ツェッチェ、ダイムラークライスラー(当時)CEOがやって来た。

「99年前に行われたのと同じことを、Eクラスが成し遂げた。
無給油で長距離を走れるというディーゼルエンジンの性能と
耐久性を実証することができた。
パリを出発した36台が揃って、明日、北京にゴールできることを願う」
 


翌朝、バダリンから北京へのコンボイ走行は厳重なものだった。
先頭と末尾だけでなく、36台のE320CDIの間に何台ものVWサンタナのパトカーが入り、
先頭には、なぜかナンバープレートが付けられていない公安関係と思われる
旧型Sクラスが隊列を引っ張った。
旧型Sクラスも、白と青に塗り分けられたVWサンタナのパトカーも
けっこうなペースで飛ばしていった。
ルーフの赤灯を点灯させながら、蹴散らすように集団で走行するから、
さすがに北京っ子ドライバーたちも、ササッと進路を開けてくれた。
 


でも、渋滞にはかなわない。
ジャンクションやインターチェンジでは、散発的に渋滞が発生している。
まったく動かなくなることもあり、E320CDIから降りて、様子を探ったりした。
振り返ると、2008年の北京オリンピックのために急ピッチで建設が進められている
スタジアムが眼に入った。
鳥の巣のように見える、巨大なスタジアムの屋根の上で作業員が
せっせと仕事を進めていた。
屋根はなだらかに傾斜していて平らなではないから、よく滑り落ちないものだ。
 


パリから1万3000kmあまりを走ってきたE320CDIのコンディションも、
さすがに良好とは言えなくなってきていた。日本組に割り当てられた2台のE320CDIは、
一台が後輪駆動で、もう一台は4輪駆動の「4マチック」。
 


過酷な条件の道を、ふたりもしくは3人とその荷物を満載して、
ハイペースで走ってきた結果として、ロードノイズやステアリングホイールへの
振動が増え、直進性が損なわれて、エンジンのドライバビリティのわずかな劣化などが
認められたが、どれも4マチックの方が少なかった。
エンジンからの駆動力を40%対60%の割り合いで、前輪と後輪に振り分けているから、
ノイズや振動の増加が少なかったのだろうか。
明らかに、4マチックの方が消耗分が少なかった。
 


フィニッシュ会場へは、東長安街を東から進入していった。
片側7、8車線ある広い通りを、メルセデスベンツやBMW、
アウディなどが群れるように走っている。
それも、ほとんどが最上級車、つまり、Sクラス、7シリーズ、A8だ。
Cクラスや3シリーズなどは、あまり見掛けない。
中小型車は、中国で生産されている外国籍車と中国メーカー車が中心だ。
ウルムチや蘭州などの大都市とは、明らかに走っている“クルマの相”が違う。
 


いくつ目かの赤信号で停まった時、右側に眼をやると、見慣れた光景があった。
天安門の正面に掲げられた毛沢東の巨大な肖像画だ。
左右にスローガンが記されていて、右側のは、おそらく
「世界人民大団結万歳」という意味なのだろうか。略字でわからない。
 
ということは、僕らの左側に天安門広場が広がっているわけだ。
1989年6月4日に、ここで民主化を要求する民間人と学生に対して
人民解放軍が武力弾圧を行った六四天安門事件の起こった場所である。
一般人に対して無差別に発砲が行われ、戦車によって轢き殺された。
当時、北京大学に留学中だった友人が、
荷物も持たず身体ひとつで逃げ帰ってきていたから、感慨深い。
 


フィニッシュセレモニーでは、名前を呼ばれて一台ずつ壇上に駆け上がり、
ゴールを切った。
 


その夜、北京郊外の「北京ベンツ」工場に向かった。
ダイムラー・クライスラーが中国の自動車メーカー
「北京汽車」と合弁で立ち上げた工場だ。
クライスラー300Cやジープ・チェロキー、メルセデスベンツEクラスを
ノックダウン生産するのだ。
中国で作られる初めてのメルセデスベンツになる。
 
製造ラインに隣接した資材倉庫のような巨大な建物で、豪勢なパーティが行われた。
ツェッチェと中国側の社長がスピーチし、バンドの生演奏と
豪華な料理がたんまりと振る舞われた。
この工場で作られたEクラスが、翌日から始まる北京モーターショーでも披露される。
 


ダイムラー・クライスラーのイベント責任者、フローレンス・ウルビッチにお祝いの言葉を掛けて労った。

「Eクラスは、品質面で問題を抱え、販売で苦戦していた。
問題を解決し終えたことを世界にアピールするために、
まず昨年のディーゼル速度記録に挑戦した。
その次が、このパリ北京だ。この工場が操業を開始し、
北京モーターショーも始まるから、タイミングは今しかなかった」
 
準備は大変だったんじゃないか。

「燃料の確保と、参加者の査証がすべて取得できるかが一番大きな問題だった」
 
試走は3回やったと聞いたが。

「3通りのルートを調べた。 99年前と同じルートは寒さが厳しく、
ロシアからモンゴルへ抜けるルートはホテルが確保できないので諦めた。
最後の試走では、各地のホテルと契約したり、
GPSのウェイポイントをマーキングしたりした」
 

パリ北京2006は、壮大な露払いだった。
北京ベンツでのEクラス生産のために、パリからわざわざ大挙して駆け付けた。
なんというスケールの大きさだろう。
個人的には、カザフスタンと中国を走れたことが貴重な経験となった。
どちらも、カザフスタンを訪れる機会はあまりなさそうだし、外国人がクルマを運転するのが難しい中国でハンドルを握れたのが収穫となった。
世界は広い。 広いけれども、道でつながっている。
遠回りになるかもしれないけれども、クルマを運転していって良かった。