最終回:「エピローグ」(後編)



『10年10万キロストーリー4』刊行記念!


トヨタ「カルディナ」でユーラシア横断を終えたジャーナリストの金子浩久。
東京で旅行を振り返る。
海外での日本人職員の対応や、ロシアの現状について考える。






■在外職員にもの申す


自分を含めて、ここまで書いてきた人たちはほぼ予定通りに旅を終えることができた。だが、伏木からのRUS号で知り合った熊谷公幸さんは、まだ旅の途中にいる。250ccのオフロードバイクで、ひとりでユーラシア大陸を横断し、その後アフリカを南下して来春に帰国する予定だと言っていた。
そんな熊谷さんから何通か電子メールをもらい、近況報告と情報交換を行ってきた。最後の1通は、僕らがロカ岬に到達した直後にもらったもので、ポーランドのワルシャワからだった。ローマ字で書かれたそれには、シベリアでバイクが壊れ、それによって1ヶ月のロシア滞在ビザが切れてしまったとあった。
「モスクワの領事館に助けを求めたところ、『ロシアをナメている』と怒られ、反省しました」という内容が書いてあった。
彼と領事館のやりとりを直接聞いたわけではないが、僕は、「ああまたか」と怒り、呆れてしまった。日本の領事館や外交官に対して、である。

ニュースで見た、中国・シンヨウ(瀋陽)にある日本総領事館での、北朝鮮脱北者追い返し事件は記憶に新しい。また、以前に知人がミラノでパスポートを盗まれ、出向いた日本領事館職員の居丈高で怠慢な姿勢を思い出した。クドいようだが、熊谷さんと領事館のやりとりの詳細は知らない。でもなぜ、日本の外交官や職員たちは海外で困っている同胞に、サディスティックな態度が取れるのだろう。もしかしたら、熊谷さんにもビザの有効期間などで落ち度があったかもしれない。でも、好んでトラブルに巻き込まれようとする旅人なんてひとりもいない。「ロシアをナメている」というのなら、外務省はホームページなどで、必要で有効な情報を十分に開示しているのだろうか。自分たちがたまたま国を代表して外国にいることを勘違いして、自国民の保護、便益の供与を蔑ろにしていないだろうか。

熊谷さんはマジメで大人しいから反省したが、そんな必要はない、と思う。僕の場合でも、伏木港の税関職員は旅行者のクルマの持ち出しについて何も知らず、知らないこと恥じている様子もなかった。熊谷さんからの電子メールを読んで、僕は他人事ながら怒った。まだまだ旅が続く熊谷さんの無事を祈らずにいられない。帰国したら、ぜひ再会したい。


■ロシアでの収穫


そして最後に自分のことになるけれども、東京に戻ったらすこしは旅の余韻にでも浸っていたかったが、そうもいかずに、以前と変わらないせわしない日々が始まっている。

ユーラシア大陸を端から端まで走ってみたことのなかで、ロシアを初めて旅行できたことは大きな収穫だった。ロシアはあまりにも大きなうえに、多様だ。さまざまな風土、民族、文化などの集合体が“ロシア”を形成している。
社会主義体制が終焉して10数年経つが、交通や旅行など人々の移動に関しては、その残滓を未だに残している。未整備の道路、各地の検問所、不十分な設備や施設等々。クルマで旅行をするのに必須な道路標識、ガソリンスタンドやサービスエリアなどの社会資本などがまだほとんど設けられていない。
欧米や日本と比較しての話ではない。“自由な移動”とか“旅行”といったものが認められなかった時代から脱却しつつあるから、なおさら目につくのだ。それはクルマや旅に限ったことではなく、道中で僕が散々悪態を着いてきたロシアの商店やホテルなどのサービスや商売といったものすべてに現れていた。社会主義という、非常にスキのない(?)政治経済体制を70年以上に渡って維持してきたのだから無理もない。

カルディナで西端から東端まで旅行してみて、ロシアが変わりつつあることを、肌身を以て知ることができた。飛行機で観光地を巡るだけだったら、わからなかっただろう。
クルマを所有して自由に移動できることが当たり前の日本や欧米諸国とは、違った様相がロシアにはあった。でも、時の流れは速いから、ロシアにも国土を横断する自動車専用道路ができ、安全で便利に旅することができるようになる日が、意外と早くやってくるかもしれない。そうなったら、ぜひもう一度クルマで出掛けてみたい。今回はロカ岬まで辿り着けるかどうかを証明しただけのような旅だったから、次は途中の過程を楽しみながら進んでいきたい。

来週のフランス出張のフライトは、ぜひ晴れてもらいたい。自分の走った道を空から眺めて確かめてみたいから。

(文=金子浩久/写真=田丸瑞穂/2003年8月初出)